» コモス・スタイルの誕生秘話のブログ記事

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さて、私が、福岡に行く決断をした瞬間、そして、実際に福岡の地を踏んだ日のことは、次回に譲るとして、今回は、コモス・スタイルのミッション、戦略を朝倉とどうブラッシュアップをしていったかというお話しをしようと思います。

お互いの経験、そしてそれぞれの経験が生み出すシナジーから、設計・建築の中でも、特に住宅に絞ることは、暗黙の了解でした。
勿論、それだけではなく、これからお話しするマーケットのギャップ、当時の経営リソースからの判断もあります。

まずは、マンションも含めて、住宅を取得する方法を徹底的に洗い出しました。そして、住宅取得に必要なこと、例えば、土地探し、ローンなどなども洗い出しました。住宅を取得する各方法の強み・弱みと住宅取得に必要なことを座標軸にプロット(ポジショニング・マップの作成)。
そして、お客様がどうしてその方法を選択したのか、それぞれの方法への不満・要望なども別の座標にプロット。

これをじっくり見渡します。穴が開くまで見渡します。すると、どうでしょう。あったんです。マーケットに大きな穴が!

そこで生まれたのが、
設計事務所(建築家)+工務店(ハウスメーカー)+αを提供する会社(組織)=コモス・スタイルなんです。

100%フルカスタマイズの設計デザインと施工、そして、土地探し・住宅ローンなどの必ず必要になるものもご提供しよう。そういう組織にしよう!となった訳です。

さて、次回は、松原、福岡に立つです。
お楽しみに!

*画像は、ポジショニング・マップの例です。(コモス・スタイルのポジショニング・マップではありません。)

松原良太

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こんにちわ、代表の朝倉です。
コモスの誕生秘話(朝倉編)の続きです。
本来の東京の持つスピード感に後頭部に強烈な衝撃をくらった25才からのお話を続けたいと思います。

私と松原のそれぞれの過去が同時進行しているはずなのですが、私がもたもたとしている為、追い越されてしまいました。
それでは、駆け足で進めていきたいと思います。

1年ほどだったと思います。
東京都の東端の葛西から西端の東村山まで2時間近くをかけて通っていたのは・・・。
ようやく、本来の希望であった、千葉県の松戸市にある会社の支店に転属となりました。

やっとこれで郊外から中央への民族大移動の流れから、中央から郊外へという通勤スタイルに変わることが出来たのです。
しかも車での通勤で、毎日が楽しかったのを憶えています。

さて、転属された会社の支店では、またもや設計部の存在はなく、工務と営業だけがあるとスタイルでした。
結局振り出しに戻ったのかというと・・・、そうではありません。
もう私の存在はもちろん支店の人間も知っています。
多分彼らの認識では、「童顔で小さくてうるさい奴」そんな感じだったのではないでしょうか。

やはりこの支店でも、分譲建売スタイルは変わりません。
大きく違ったのは、本社ほど人員や組織が確立されていませんので、設計業務はもちろん、物件の案内や接客打合せ見積などの営業や工務の部分を兼ねた動きでした。

その中でも特に思い出に残っている事が「チームワーク」についてです。
どうしても人は、立場立場によって物を考えます。
私の場合、設計という立場からくる常識などを工務などの人間に押しつける傾向が強かったのですが、まだ人員も不足し、組織としての連携・意識も不足など何から何まで足りない物ばかりです。

当然、組織運営システムが確立された上場企業のような常識は通用しません。
でもただ嘆いていては何も始まりません。
そう、設計者という立場からみた理想をみんなに伝え、現場や営業と一緒に行動し汗を流し、一つ一つのプロジェクトにトライしていったのを憶えています。

それは、時には厳しい緊張感もあり、またオフの時間には共に遊び行動し、とても良い組織が出来上がっていたと思います。
私にとってこの時期が、サラリーマン時代における一番充実していた頃だったと思います。しっかりと明確に「自由と責任」をビシバシ感じながら仕事をしていました。

さて、そんな時期も終わりを迎え、そろそろ私の故郷である地元福岡に戻り、「起業」の準備に取りかかろうと考え始めたのがこの頃でした。
そうです、学生の頃からの念願だった「設計・施工」を福岡で実現する為、妻とは何度も話し合いました。
時にはお互い感情的になり、話しが中断することも・・・・。
「もう少し、東京にいて他の経験をすれば?」など。

妻からすると、実家である東北の会津若松なら東京から2時間とちょっとで車で帰省できたのが、九州博多では大きく違います。
でも、結局は妻も理解を示してくれ、平成10年の8月に福岡に帰ることが決定しました。20才の頃から東京に住んで6年半、私にとって大きく成長させてもらった「遊学」だったと思います。

そして、会社を離れていく私の送別会を企画してくれたのが、松原と松原の奥さん(当時はまだ結婚していません)でした。
新宿のとある飲食店での送別会でした。
私と妻も連行して参加。

もちろん、この時も、「じゃぁ、一足先に福岡に帰って準備してるから、あとからおいでよ!」など、私と松原の頭には微塵もありませんでした。
運命っておもしろいですね。
さてさて、長くなりましたので、本日はこのくらいで・・・・。

bp

その日、いつものように、福岡にいる朝倉に電話でマッキントッシュの相談。
私は、既に2年勤めたITの会社を辞めており、建設会社へと転職していました。
MBAを始めたのもこの頃です。

今思えば、私は、その時、この先どう自分のキャリアを築こうか迷っていたと思います。
一方で、福岡で起業して3年を経過していた(クレディスの前身の有限会社陽建築工房)朝倉も下請けというポジションから会社を脱却させるためにどうしたらよいかを模索していましいた。

その電話は、マッキントッシュの相談から、お互いの置かれた立場や悩みの話に至った瞬間です。

今思えば、この瞬間が2人のターニングポイントだったと思います。

私は、当時努めていた建設会社で新規事業をせっせと提案していました。が、私の実力不足でしょう。全く受入られない。
そのアイデアが、朝倉の会社(旧陽建築工房)が下請け体制から脱却するヒントにならないかと思い、朝倉に話してみたのです。勿論、全てがフィットする訳もなく、2人で定期的にそのアイデアを実行可能なものにブラッシュアップしていくことになったのです。

運命は、コモス・スタイル誕生に動き出しました。電話やチャットでやり取りをしていましたが、やはり、どうしても福岡というマーケット、実際の陽建築工房を見ないと確固たる事業計画には落とし込めないということで、定期的に私が福岡へ行くことになったのです。半分は、福岡で美味いものを食べることが目的でしたが・・・・(笑)。

住宅を提供するという事業自体は、既に成熟産業、競争も激しい。しかし、そういう業界だからこそ、エアーポケット、隙間が必ずある!そんな思いから、2人でブラッシュアップを始め、数十ページに渡るビジネスプランの完成には半年はかかったと思います。

ところで、このコモス・スタイルというブランドネーム、その意味は、
COmfortable/MOdern/Smart/の頭を取った造語です。これをどこで私が考えたかというと、実は、当時はまだ私の本拠地は東京。週末に東京から栃木県の那須高原に行く車中でいろいろと考え、那須高原のカフェ(SHOZO Cafe)で纏めました。これは誰にも話していません。初めて話しました。

試行錯誤の後、完成したコモス・スタイルビジネスプラン。このプランだけでは、何にもなりません。実行しなければ・・・・。折角、2人で纏めあげたプラン。

私、ここまで来たら、福岡に行って実行までしたい!
朝倉、ここまで来たら、松原もこっちで一緒に実行しないかなぁ?
という共通認識はあったものの、なかなか2人とも言い出せない。そりゃそうです。人生の大きな転換点ということは2人とも理解しています。
ましてや松原をこの給料で、福岡に呼ぶなんて・・・と思う朝倉。
福岡で実行したいけど、婚約したばかりの松原。ご両親にどうやって話そう・・・・。嫁さんになる人に何と説明しよう・・・・。
朝倉は、福岡に行って一緒に実行すると言ったら、受け入れてくれるだろうか・・・。
互いに、色々な思いが錯綜します・・・・・。

松原良太

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*写真は、イメージです。IT業界にいたときは、実際にこんな感じのサーバルームで3日不眠不休で、ベンチマーク試験をしていたことを思いだします。

私と朝倉が出会ったころと言えば、Windows95が発売され、インターネットという言葉がようやく一般的になったことだったと思います。当然ネット接続環境も、ADSLとか、光とかケーブルTVとかではなく、
ピー、ヒョロロロロ、ポーン、ポーンでした(これ分かります?笑)。
そんな時代でしたが、“何となく(そんな偉そうな論理ではなく)”これからは、インターネットによって時代が変わると感じていた私。
社長に無理を言って、それなりの説得をして、ネット関係の学校に通ったことを思い出します(今考えると、よくあの社長が許可してくれたなぁと思います。)。

当時は、Yahoo不動産とか、HOMESとか不動産ポータルはなく、社長に立ち上げ企画と予算をお願いしましたが、これはさすがに一蹴されました(笑)。
その頃には、その会社の業務や、業界の流れ、善し悪しなどなど色々と分かっていたので、次のステップに進みたい松原青年。ということで、どうしてもIT業界を知りたい!絶対に理解しておいて損はない!と思い一大決心。これがまた運がよいことに、IT業界の超大手に勤めることができたのです(今考えてもどうして、勤めることができたか分かりません)。

私が担当したのは、ミドルウェアであるデータベースソフトのプリセールス。これがやはり、非常に勉強になりました。取扱がミドルウェアでしたので、サーバー、ストレージ、フロントエンドアプリケーションとウェブシステムの全体について知識がないといけません。会社も勉強させてくれたし、自分でも相当勉強しました。私の取扱は主にIBM社製のDBソフトであるDB2という製品でした。DB2のIBM認定の資格も取りましたが、今は殆ど残っておりません(笑)。

私が、転職する半年くらい前でしょうか。朝倉は福岡で起業する!という昔からの夢の実現に向け、東京を離れておりました。最後の夜に朝倉と奥さん、私と私の奥さん(当時は恋人)と新宿で送別会をやったのを覚えています。が、その時も将来一緒に会社をやろうなどということは一言もありません。「朝倉さん、大丈夫だろうか。絶対頑張ってほしい。」と思ってはいましたが。

さてさて、朝倉は福岡へ、私はIT業界へ。ここで2人の関係は終わりだったかもしれません。しかし、神様がそうはさせなかった(笑)。朝倉と分かれて、ちょっとしたころ、松原青年はAppleのマックに魅せられることになります。しかし、周りには、Appleを使っている人がいない。そこで、ふと思い出したのが、朝倉です。朝倉といえば、Apple馬鹿(先日発売されたiPod touchも発表のその日にネットで購入しており、今毎日いじっています。)。色々と情報収集とアドバイスを受けるために連絡をとることになったのです。半年に1回くらいは、連絡をとっていました。

しかし、そこでも基本的には仕事の話はなし。そんなやりとりが2年間くらい続いたでしょうか。ある電話をきっかけに、運命が変わりはじめます。。。。

松原良太

kurenai

みなさん、こんにちは。

さてさて、前回は、2人(朝倉と松原)が出会ったとことまでを書きましたので、その続きを書きたいと思います。出会った会社は東京では、割と有名な戸建てを中心とする不動産デベロッパーです。当時の2人の職種は、朝倉が設計、そして、松原は、不動産の仕入れと法務・契約関係担当でした。

朝倉も触れておりましたが、当時の物量とスピードは私にとっても衝撃でした。朝会社に出社すると、不動産ブローカーから山のようなファックス。どれも戸建て用地(一般の市場に出回る前のもの)を紹介するファックスです。不動産は実際に物を見ないで、買う、買わないの判断することはできません。明らかに駄目なものは、さすがにパスしますが、見に行く順番を整理し、出発です(これを現調とか物調とか言います)。多い時には一日10物件以上を見に行きます。とにかく毎日行きます。

こういった土地の情報は、ライバル各社にも情報が伝わっているので、購入意志決定のスピードが全てです。ちなみに、当時の凄腕部長は、物件を見ないで、ファックスを見るー>ブローカーに電話。「買う」とその場で返答し、「まっちゃん(私のこと)一応、見ておいてね。」というケースさえありました。そこいうケースは希ですが、それでも凄いスピードです。土地を見に行き、その場で会社(部長)に連絡。

「売れる土地か売れない土地か」「戸建てを建てる上での問題点」を報告し、また次へ。この繰り返しです。驚くのはまだ早いですよー。
夕方帰社します。すると、もう分割図とマスター設計が終わり、売値まで決まっている場合さえあるのです。つまり、設計者(朝倉青年)は現地を見ないのです!これは、設計畑の人間には相当なカルチャーショックだったと思います。

それでも、設計者としてのささやかな抵抗を見せる朝倉青年を今でも覚えています。「朝倉さぁ、この階段は幾らコストがかかるのよー。気持ちは分かるけど、却下。」と部長に言われ、苦笑い。また、お客様との接客に同行したときには、お客様から、「このデザインを丸から四角に変えて欲しい」と言われた朝倉青年。私が「勿論、変えますよ」と言いかけた瞬間、「これは丸で、勘弁してください」と朝倉青年。私、青くなる・・・・。

まだまだ、この会社でのエピソードは沢山ありますが、今回はこのあたりで、止めておきます。朝倉も書いていましたが、この会社は2人が単に出会っただけでなく、2人にとって色々な意味で本当に勉強になったと思います。後の2人を大きく変えたと思います。

当時は、一緒の仕事に絡むことはあまりなかった2人ですが、社内では、馬が合い、互いに一目置いていた(私は互いだと思っています。。。)のは覚えています。そして、2人とも必死で勉強をしながらも、一方で「この業界と自分自身」に向き合い、問題点を認識し、焦燥感・危機感を持つようになったと思います。

そんな2人の関係と考え(想い)が繋がり後に、福岡でコモス・スタイルを結成するに至る訳ですが、この時期は、まだ2人で仕事をするなんてまったく考えていません。運命は動き出していたのに・・・。

つづく。

*写真は、本文とは関係ありません。これは、10年くらい前の出会った頃の2人です。社員旅行でオーストラリアに行った時のもの。ボロボロの飛行機でゴールドコースト空遊に離陸する直前の痛い写真です。命の保証はないという英語の書面にサインした直後です。。。パイロットは完全に昼間から酒を飲んでいました。

松原良太

tokyo

こんにちわ、代表の朝倉です。
コモスの誕生秘話(朝倉編)の続きです。
新しい転職先である不動産デベロッパーの設計部門に入社した私が、鮮明に印象に残る松原との出会いを感じたところから話しを続けたいと思います。

私が入社した会社は東京都内でデザインに特化した住宅の建売を販売していた会社でした。まだ設計部もなく会社が急激な成長をし始めた頃のことです。
この会社は東京都といっても西部の東村山市に所在し、埼玉県の所沢という西武ライオンズ球場の近くで、その当時私が住んでいた江戸川区の葛西というところから、東京メトロの「東西線」と西武鉄道の「西武新宿線」を乗り継いで2時間弱という長時間をかけて通っていました。

ではなぜこんな東京の東から西を横断するような会社をえらんだかというと・・・・、この当時の会社を引っ張っていた専務が強烈にインパクトがあって、スタッフ全員が若い、そして何より、何かこの会社で得難い経験をさせてもらえるような「直感」というようなものを感じたからです。

私の直感は当たったようでした。
まず、こういった会社の特徴として、営業が一番強くその次に工務、そして設計(まだカタチにもなってませんが)という力関係でした。
これが設計事務所では、まず考えられない関係でした。

設計が図面を描かずとも、営業が描いた何となくのラフプラン(私から見た)が契約図になり、それをもとに工務が見積をし、大工や各職方に手渡され実際の住宅が建っていくという過程を間近にみて「愕然」としたのが正直な感想です。

そこに、設計者が介在せず、作り手の都合だけでプロジェクトが淡々と進められていくわけです。今までいた環境とは全く違う環境です。
以前なら設計者である私が図面を描かないと進めないのは当然で、勝手に監督や職方だけで進められることなどあり得なかったのです。

最初、私とほぼ同時に入社した上海出身の設計者のSさんと、まず設計の地位を確立することから始めました。
意識改革です。サッカーでいうミッドフィールダーのように必ず設計を経由してパスを現場に供給していくように・・・・。

もちろん反発もありました。
今まで自分(現場)たちの自由裁量でやれたのですから。
それと、言ったからには責任があります。
人の権限を奪う以上、仕事量と責任は飛躍的に増えます。

顧客との契約および打合せ、職方さんや現場監督との打合せ、そして作図業務と。
もうとにかく、全てに首を突っ込んでいました。
この当時、常時動いている現場で5〜6棟ほど抱えてたのですが、自宅まで2時間弱の距離もあり、10時30分頃の帰りの電車に乗らないと帰れないというのもあり、その時間までは目一杯働いていました。
本当に神経がすり減る毎日だったのを記憶しています。

設計者とは、現場監督とは、顧客とは・・・、そこからの再確認・再定義から啓蒙していくしかありません。
そうですね、設計の地位を確立するのに、やはり1年くらいかかったと思います。
設計の人数も順調に増え、私が退職する頃には10名ほどだったと思います。
しかし、ここは大東京、福岡とは人口が違います、物件量が違います、スピードが違います。

それを端的に示した例ですが、業務中に突然土地の物件のFAXが流れて来ます。
しばらくすると土地の仕入れ先である不動産会社の担当者から電話があり、間取りを描いて欲しいという依頼があり、その2時間後にはCADで描かれた図面を提出し、その土地に希望の間取りがはいることが確認されると、営業があらかたの販売価格をはじき出し、土地の購入の意思表示である買付証明書を売り主にFAXするという流れです。

この一連の流れに対応する自分を築くのに、やはり数ヶ月を要しました。
2時間必死になってプランを考えCADで清書して提出するのです。
ただ間取りを描くだけではありません。
東京は各区が独立した建築行政なので、建築条令が全て違います。
それらの確認や敷地の分割検討まで・・・・。
入社当初は、それを提出した2時間後には抜け殻のようにへとへとでした。

東京での生活が4年を過ぎ、自分でももう慣れたと思っていたのですが、この会社で感じるスピード感は、とにかく速かったです。
自分の周りのスピードがあまりにも速く、目まいをおこしそうなくらいでした。
しかし、このスピードがないと東京では、希望に添うような事業用の土地は手に入らないのです。

お客様が、我々の提供する物件を購入する「意志決定」の場合もそうです。
本当に良い場所、相応の値段であれば、もうバーゲンセールのような競争がそこにはあります。
バブルが崩壊して久しい時分だったのにです。

このスピードは多分、日本では東京だけではないでしょうか。
一種異常なスピードです。
みなさん、どうですか、土地建物を含めて1億円近くもする物件の購入の判断を瞬時にやらなくてはいけないこの異常さ。
福岡出身の私には衝撃的でした。

そんな衝撃をくらった25才の朝倉青年でした。
少し長くなりましたので本日はこのくらいで・・・・。

朝倉陽一

さてさて、
前回の朝倉に続き、今回「コモス・スタイルの誕生秘話」の担当は、私松原です。
どこから、話そうかと考えましたが、大学時代の後半から。

私、実は、大学4年間、全く勉強していません。勉強した記憶もありません(笑)。当然天罰が下り、通常、週に1日、2日しか学校に行く必要のない4年生で毎日学校に通ってました。
そう、単位が足りないからです。
現在でも月に一度は、留年し、親に頭を下げる夢をみます。

それでも、時はバブル(実際には4年生の後半にはじけました)。就職には困ることはありませんでした。そして、今から考えると決して褒められる話ではありませんが、やりたいこともなかったのです(ここは既に将来を決めていた朝倉少年とは全然違います)。
とりあえず、都市銀行へ入社。どの銀行がいいなんてポリシーも全くなし。最初に受けた銀行でその日のうちに内定。ラッキーとばかりに就職活動終了です(当然、当時は銀行の倒産、都銀の合併なんて全く想像していません)。
当然の成り行きか(私にお会いしたことのある方なら、納得できると思いますが、)、銀行時代は短命に終わります。私若手行員なのに、一番早く帰ることで支店で有名でした。でもきっちり仕事はしていましたよ(と自分だけで思っている:笑)。

それから、何をしたと思いますか?
殆ど誰にも話していませんが、公認会計士になろうとバイトをしながら、専門学校に通い始めたのです。
結果は、お話ししなくてもお分かりになると思います。今、公認会計士をやっていませんから。(笑)その後、先輩の紹介で、1995年不動産デベロッパーに法務、土地仕入れ担当ということで入社します。その数ヶ月後、後に運命の出会いとなる朝倉青年と出会ったわけです。

最初の印象?
朝倉に会った方なら、お分かりになると思いますが、歳よりずっと若く見えます。そして、爽やかに見えます(実際に爽やかです。ということにしておきます)。ですので、”カワイイ” ”スリスリしたい”が最初の印象です(笑)。

さてさて、ようやく、ここで、点が線になりましたね。二人が出会ったわけです。しかし、、、、

本日はここまで。次回に続きます。

松原良太

※写真は私が24歳のころのものです。

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こんにちわ、代表の朝倉です。

今回は、コモス・スタイル(株式会社クレディス)の「生い立ち」を辿っていきたいと思います。 ただコモス・スタイル(株式会社クレディス)の生い立ちといっても、会社というのは突然誕生するわけではありません。 私やパートナーである松原のそれぞれの「熱い想い」があって始まったのですから、それ以前の話しなども交えつつ、つらつら考えながら書いていきたいと思います。

平成4年の春・・・・ 。 「いずれは独立」を胸に設計事務所に勤務した私ですが、右も左も分からない東京に「アパート一人暮らし」からスタートしました。 東京に着いた初日、折しも営団地下鉄(現在東京メトロ)のストに遭遇し、スト解除後の怒濤のような「人波の凄さ」に文字通り身も心も押しつぶされ、首都東京の「洗礼」を浴びたのがすべての始まりでした。

早く一人前の設計士としてやっていきたいという希望を全面に出す一方、何でもこなすという意欲のカタマリだったと自負してます(今でも変わらないつもりです)。 この業界には徒弟制度のような考え方が色濃く残っていて、上司や先輩なども「教えてやってるんだぞ!」というスタンスが普通でした。 上司や先輩に何かモノを尋ねる場合は、手帳を片手にひざまずくという姿勢が自然に身についたのもこの頃です。 現在ではなかなか見られない光景ですね。 こういった徒弟制度の「教えてやってるんだぞ!」というような職種ですので、給料面なんかも良いはずがありません。 外食なんかも当然できるはずもなく、毎朝、毎晩自炊生活を強いられました。 そんな環境でも前向きな(自称です。笑)私は、アパートの隣室の同期の友人と互いに持ち寄った食物を一緒に食べるなど、結構「貧乏生活」も楽しく過ごしていました。 そこで覚えたこと、「卵料理は毎日食べても飽きない」でした。

さて、話題を仕事の話に移したいと思います。 最初に勤めた設計事務所では、半導体工場やコンサートホール、大規模商業施設などのビッグプロジェクトに参加できたことや、さほどの学歴のない私など場違いのような優秀な人材達とクリエイティブで刺激的な仕事を共にできたことなど、今思えば大変幸運に恵まれたキャリアを築かせて頂きました。 そこで学んだものは、デザイン的ディテールはもちろん、大勢で一つのモノを作り上げる大変さと楽しさ、多人数での会議の仕方、問題解決の仕方など、本当に大きな財産となって私のなかに残っています。

しかし、良いことばかりではありません。 時には全てを投げ出して「リセット」したいと思ったことも数え切れないほどありました(会社をサボってディズニーランドに行ったのもこの頃です)。 例えば、朝出社すると自分の机の上に期日の迫った「未チェックの図面」が30〜40cm程積み上げられた状態や、残業で自宅に帰れず、朝方自分の机の下に新聞紙を敷いて睡眠を取ったり、久しぶりに戻った私のアパートは長時間締め切っていた為に畳の上は「カビだらけ」という状況など、そして半ば人格を否定されたような「くそみそ」に怒られた事・・・・・など。 これらも今となっては良い思い出です(多少Mっ気があるのかもしれません)。

そんな折り、ある大型物件が完成を迎え、私にとっての一つのターニングポイントである出来事がありました。 それは勤め人であれば誰にとっても大きな出来事だと思います。そう、「転職」です。 今までの環境ではできなかった、「住宅」という私にとっての最大のテーマに取り組もうと思い転職を決意しました。 そして複数の設計事務所への入社と退社を経て、都内で分譲住宅にたずさわっていた不動産デベロッパーの設計部門に所属したのが、現在のパートナーである松原との出会いの始まりでした。

入社初日の挨拶の時に、まっさきに私の目に飛び込んできたのが彼(松原)だったのです。 今でもその光景は忘れられないほど鮮明に私の記憶にあります(あの特徴のある顔は皆さんも一度見ると忘れることはできないでしょう)。 少し長くなりましたので続きは次回へ・・・・・。 よろしければコメントなど頂けましたら幸いです。 どんなことでも結構です、励みになりますので。

朝倉陽一

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